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建国記念の日(平成二十四年)

2012/02/11 18:01

 

建国記念の日の本日、我が家にて国旗を掲げた後、早朝より国幣小社であった伊奈波神社「紀元祭」に参列す。

 

 

厳しい寒さの中、私たち家族以外はてたった2人という少人数での「紀元祭」であったが、本日は空には雲ひとつない天候に恵まれ、国家鎮護と皇室の弥栄を心より祈り、厳粛な中、代表として玉串奉奠す。

 

昨年の大雪の中、伊勢神宮へ参詣させていただいた時より、拙い当ブロブを書き記すこと、目出度く「一周年記念」となった。

 

多くの読者の皆様にはこの一年お付き合い下さりましたこと、心より御礼申し上げます。

 

昨年引き続いた大災害や未曾有の円高による経済低迷や増加する凶悪犯罪、公教育への不信、矛盾する社会保障、こころの病の増加など、あまりに多くの難題が今、私たち日本人に降りかかっている。

 

しかし、一年前から叫び続けてきた、過剰なエンターテインメントやファッション、グルメ、ギャンブルなど大量生産大量消費社会はおさまらず、無謀な運転を曝す大型の自動車は一向に減ることなく、韓流の衣食住ブームなどに多くの人々は、日本人を忘れ、我を忘れ、ますます「短絡的」「感覚的」な社会となり、餓鬼、修羅、地獄の様相にも思えるのは決して私だけではあるまい。

 

この昏迷の時代、私は、「こころの経営」という考えを掲げて、おこがましくも一介の教育業者として生かしていただいているが、己の修行不足はもとより、厄年である自身の境遇もあってか、まだまだ訴える場所が少ない状況である。

 

そんな自身を鼓舞し、さらなる刻苦勉励に向かわしめるため、各地霊場巡礼や天台法華の修行に身を置き、ゆっくりではあるが「あせらず」生かされているところである。

 

次に向かったのは、式内社である方県津神社の「建国祭」。

 

 

伊奈波神社との関係深き祭神。

 

 

寒い中、氏子の皆さんとともに、神主による「紀元祭」のご説明を拝聴し、改めて日本国の歴史の尊さに想いを馳せるばかりなり。

 

そこで私が発見することは、こういう行事にご参加される方々は、己や家族の幸福を求めるために神前で一生懸命祈る姿ではなく、日本人としての当たり前の「感謝」が生み出した姿と映ることである。

 

昨今、「パワースポット」などと称されるキャッチフレーズに誘われるが如く、観光客として寺社仏閣を訪れる人が多い。

 

しかし、その美しい寺社仏閣(特に神社)はこのような氏子の皆さんのような連綿とした善意によって清められていることを決して忘れてはならない。

 

商業ベースや現世利益に影響された考えで神仏に対面することから、「感謝」のこころをもって神仏を己に重ねることへ、一人でも多くの日本人がchangeすることを心から願う。

 

すると、不思議と大量消費を美徳とは考えなくなる。

 

日本人として、足元にある「もの」や、先人の伝えてきた「智慧」の存在へ回帰するようになる。

 

人の目を気にする生活から、己の心の平安へのありがたさを噛み締める生活へと変化する。

 

例えば、大きな、人を威嚇するような、見栄を張るようなスタイルの車を求めなくなる(僧侶ですら、過剰な大きさや威圧的なデザインの車を寺院に止めていること見かけるが、離檀等の宗教離れの一因が垣間見れよう

 

そして運転もやさしくなる。

 

ハンドルを片手で持つ、かっこつけのような運転スタイルをしなくなる。

 

私は、運転するとき、ハンドルは両手で持つ。

 

言うまでもない当たり前のことのはずだが、対向車のドライバーはほんとうに片手運転が多い。

 

善悪の基準を言うのは気が引けるが、これだけははっきり言おう。

 

「やさしさ(慈悲)」がない。

 

もし、お年寄りやこどもが出てきたらどうするのか。

 

もし、想定外の危険回避をせねばならない時どうするのか。

 

きっと、そういう人はこういうだろう。

 

大丈夫、私は運転がうまいから・・・」

 

では、運転がうまいあなたでも回避できないほどの場面に出くわしたらどうするのか。

 

「その場合は、仕方ない・・・」

 

その場合、人の命を奪うということだ!

 

ハンドルを両手で握っても、完全な危険回避は難しいのに・・・

 

以前にも申したが、私は直接警察の試験による大型2種(バス)免許取得後、特に運転への配慮を重視するようになった(何度も言うが、警察官による「厳格な試験」を何度も経験したことは私にとって良き「財産」である)。

 

そこで、私は、車の中に天台宗の経典を携え運転前に読経することにしている。

 

時間がない時は、短いお経である「延命十句観音経」や「不動明王ご真言」などをお唱えすることにしている。

 

とりあえず、車を運転できる境遇への感謝を読経として顕す。

 

さすれば、運転前にドライバーとして心を落ち着かせ、集中するに向かう。

 

運転を終えた時は、無事に運転できたことへの「感謝」を読経をもって顕す。

 

快適で安全な大きな車に身を置くと、逆に「感謝」の気持ちを維持しにくくなると、私は確信している。

 

道路は「公」道である。

 

その「公」道を無事走らせていただける有難さを身にしみて「感謝」する機会を、過剰な見栄えや贅沢をまとった「車」は奪ってしまうのだ。

 

これは、何にでも当てはめられよう。

 

公職(公務員・議員)、会社、家、役職(教員・管理職)、学歴、難関資格、美貌・・

 

それが他人から「見栄え」よく、「贅沢」があふれるものである場合、「感謝」する機会は遠ざかる。

 

「欲」とは恐ろしいものであるゆえ、便利に慣れた私たちは、「感謝」することで、己の感性(仏性)を取り戻すしかないのだ。

 

特に、車は人の命を奪う身近な「凶器」ともなる。

 

そういう「欲」の具現化したものという意識をもって、運転させていただけることへの「感謝」が重要なのだ。

 

話が、いくぶん自動車運転のことになってしまったが、「感謝」の場は多ければ多いほどよい。

 

だが、私たちは雑念や欲望から完全に逃れることはできない・・・

 

だから、「感謝」といっても、形だけで終わっていることがほとんどなのだ。

 

ゆえに、個人的な願いで寺社仏閣へ詣でることよりも、本日の「紀元祭」のような個人の規模を超えた行事を通して、参詣するほうが自然と「感謝」できるのだ。

 

そして、そこに集う老若男女の方々も同じく個人的な欲望をむき出して参詣するといった雰囲気ではないため、自然と「感謝」する方向へ導かれていきやすいのだ。

 

ぜひとも、「紀元祭」に当たる「建国記念の日」の本日は、せめて神棚の扉をお開きして、家族そろって祝詞を奏上していただきたい。

 

それと、祝日は「国旗掲揚を心よりお願いしたく候。

 

「国旗掲揚」が祝日には自然の風景となることを私は願う。

 

この「日本国」があるからこそ、私たちは不平不満があっても生きられているではないか(何でも完璧なものはこの現世にない。日本国の伝統を否定する政治家や思想運動家の方々が唱える公教育などでの教育方針を受けて実際、こころが豊かになっている人が増えたのか?感謝できる人間が増えたのか?を問いたし)。

 

日本国を否定する人、国旗、国歌を否定する人のほうが、案外、公務員などの身分で守られていたり、この国の制度や税金の御蔭で暮らしているように映るのは私だけでは決してないだろう。


不平不満を言う前に、「感謝」、なのである。

 

そして、その「感謝」を顕す日こそが、本日の「紀元祭」のような祝日に他ならないと確信するが如何。

カテゴリ: リビング  > 暮らし経済    フォルダ: 指定なし

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