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こころの経営

2012/03/11 01:01

 

平成23年3月11日は、かの未曾有の大震災であったが、この一年、わたし自身を振り返って見ると、逆境の中、色々想い巡らし試行錯誤しながらも「己の生きる指針」を打ち立てることができた。
 
厳しい社会・経済状況の中ではあるが、お陰さまで、本当に有難いことだと感謝している次第。

 

特に、日本人としての原点を顧みる機会を与えていただいたことに感謝している。

 

すると、不思議とこころが安定してくるのだ。

 

まずは、食べ物

 

牛、豚など死ぬときにを流す(人間に近い感情をもつ)動物の肉食は、まったく口にしなくなった(添加物に知らずに入っている場合があるため、意識的にという意味で・・・)。

 

いつの間にか、鳥、白身赤身の大型魚(青味の小型魚類を除く)などもほとんど口にしなくなっている次第(ここ最近はまったく口にしていない)。

 

また、乳製品を止めた代わりに、豆乳や大豆等の豆類、きな粉、納豆などを基本食とさせていただいているところである。

 

不思議と、ひらめきが多くなり、シンプルな生活の中に満足が見いだせるようになってきた。

 

さらに、主食はパンや白米(白米は「粕(かす)と漢字で現わすが如し)を止めた代わりに、「玄米」を基本に、手巻きずしなど状況に応じて「五分つき米」をいただくことにしてから、すこぶる心身の調子がいいのである。

 

昔、患ってきた花粉症もまったく出ない。

 

昔、よくひいた風邪もまったくひかない。

 

体質改善とともに自身の霊性も少しづつ向上させていただいてきているようでお陰さまで本当に感謝しかない。

 

最近、ご飯を炊く時、水分を少なくし、その反動でいやおうにも「噛む」ように仕向けている。

 

どうしてもやわらかければ「噛む」ことを必要としないので、意識的に噛むことに心が偏って感謝する機会を失うように感じるからである。

 

固めのご飯は、必然的に「噛む」ようになるので、ご飯の本来の味わいに心が行き届き、また咀嚼すればするほど、まったりとした味となるから不思議である。

 

こんなことを今さら言っていると「ご一笑」なされることを覚悟のうえ、若き時期にこのような食事に対する身の置き方を知っていればと深く懺悔しているところである・・・

 

お金は使わず、健康にもよく、頭がシャープになり、いくぶん霊性も高まる・・・など、私はこの一年でこれだけを実感できただけでもお陰さまで幸せ至極である。

 

もし、みなさんが、牛、豚など高等動物を食する場合、少なくとも「命」をいただくことへの感謝をお勧めしたく、敢えて「美食」追求のみをもって大量消費する姿勢から転換していただけたら、と願う。

 

牛、豚などを食す場合は、その尊い命を頂きその命の分以上に宇宙に還元していくための「薬」として十分感謝して頂くべきと考える。

 

まあ、それでも、肉に対しては賛否両論があるのだろうか。

 

よって、少なくとも、私自身の体験談として、私は、牛、豚は食さないことで「こころの調子がいい」とだけ言っておこうか(これだけは、皆さんが己自身で悟ることしか道はないからである・・・)。

 

話は戻って、つまり、この一見、不況に見舞われ希望の光が見えにくいと思える日本全土の姿は、「般若心経」等諸経典の読誦を通して見つめるうちに、日本人の生き方の原点を思索することができる稀有な時期だったと感謝している。

 

戦後、「西洋」の文化に傾倒し続け、ここ数年は「韓流」などといったフレーズに象徴されるように「隣国」の文化に傾倒する人々・・・

 

彼ら(彼女ら)は、一体いつになれば「自分」の足元を見つめるのであろうか・・・

 

日本人の弱点は、危機的状況になれば、自身を見つめなおさず、外を見て安心したり(他と比較したり)、大きな権力や時勢に思考停止して従うところか・・・

 

私は、そんな日本人にはなりたくない。

 

これをお読みくださっている皆さんのように、日本人の長所を生かしたいと願っている。

 

その長所を世界中に、宇宙の果てまで解き放っていきたい。

 

戦前の軍国主義のような「力」ではなく(だからと言っても、自衛隊は尊重しているところである)。

 

戦後の資本主義のような「製品」ではなく(だからと言って「モノ」自体の否定ではない)。

 

「正直」「清浄」「慈悲」に根差した生き方を解き放っていきたいのだ。

 

これは、「天照皇太神」「八幡大菩薩(大神)」「春日大神」がお示しになった三社託宣に基づくものである。

 

この日本国における最上位におはす神々の託宣に示された「正直」「清浄」「慈悲」を蘇らせることに政治、経済、教育、地域、隣人、家庭・・・などは関心を寄せるべきと、少なくとも私は確信している。

 

この3つにおいては、世界にも、宇宙全体にも、何ら不利益なことは見いだせないが如何。

 

あの大震災から一年が経った。

 

皆さんには、この一年、振り返って見ればどのような気付きがあったのでしょうか。

 

私は、「食」の見直しと、霊場巡りで広がった神仏習合の「宇宙観」、そして読経による「瞑想」のありがたさにあらためて気付くことができた次第。

 

さあ、かの大震災から一年は終わり、次の一年が始まる。

 

もう、過去の矛盾に満ちた「カネ」と「モノ」中心の経営システムから、「こころの経営」へとシフトしようではないか!

 

節目である本日、大震災以降の一年、様々な原因で犠牲となられた諸精霊に回向の志をここに捧げ奉る。

 

観音句

 

南無大慈大悲の観世音菩薩

 

四重重罪

 

五逆消滅

 

自他平等

 

即身成仏

 

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 

南無阿弥陀仏

 

南無阿弥陀仏 

 

願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道 

 

「カネ」「モノ」を中心とした経営システムを脱して、「こころの経営」を尊重していただける縁ある方々を御守護なさしめ給へ

 

現在の日本国に巣食い、善良な日本国民を陥れる輩および邪気邪霊に対しても速やかに悟りのこころを生ぜしめ給へ

 

同時に、私自身を含めて、日本国はじめ、世界、宇宙のあらゆるものに速やかに悟りのこころを生ぜしめ給へ

 

 

燦々と輝く日光とともに教王護国寺東寺)におはす国家鎮護の大元帥明王に心より祈る。

 

すべてのものが速やかに悟りの心を生じることができますように

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建国記念の日(平成二十四年)

2012/02/11 18:01

 

建国記念の日の本日、我が家にて国旗を掲げた後、早朝より国幣小社であった伊奈波神社「紀元祭」に参列す。

 

 

厳しい寒さの中、私たち家族以外はてたった2人という少人数での「紀元祭」であったが、本日は空には雲ひとつない天候に恵まれ、国家鎮護と皇室の弥栄を心より祈り、厳粛な中、代表として玉串奉奠す。

 

昨年の大雪の中、伊勢神宮へ参詣させていただいた時より、拙い当ブロブを書き記すこと、目出度く「一周年記念」となった。

 

多くの読者の皆様にはこの一年お付き合い下さりましたこと、心より御礼申し上げます。

 

昨年引き続いた大災害や未曾有の円高による経済低迷や増加する凶悪犯罪、公教育への不信、矛盾する社会保障、こころの病の増加など、あまりに多くの難題が今、私たち日本人に降りかかっている。

 

しかし、一年前から叫び続けてきた、過剰なエンターテインメントやファッション、グルメ、ギャンブルなど大量生産大量消費社会はおさまらず、無謀な運転を曝す大型の自動車は一向に減ることなく、韓流の衣食住ブームなどに多くの人々は、日本人を忘れ、我を忘れ、ますます「短絡的」「感覚的」な社会となり、餓鬼、修羅、地獄の様相にも思えるのは決して私だけではあるまい。

 

この昏迷の時代、私は、「こころの経営」という考えを掲げて、おこがましくも一介の教育業者として生かしていただいているが、己の修行不足はもとより、厄年である自身の境遇もあってか、まだまだ訴える場所が少ない状況である。

 

そんな自身を鼓舞し、さらなる刻苦勉励に向かわしめるため、各地霊場巡礼や天台法華の修行に身を置き、ゆっくりではあるが「あせらず」生かされているところである。

 

次に向かったのは、式内社である方県津神社の「建国祭」。

 

 

伊奈波神社との関係深き祭神。

 

 

寒い中、氏子の皆さんとともに、神主による「紀元祭」のご説明を拝聴し、改めて日本国の歴史の尊さに想いを馳せるばかりなり。

 

そこで私が発見することは、こういう行事にご参加される方々は、己や家族の幸福を求めるために神前で一生懸命祈る姿ではなく、日本人としての当たり前の「感謝」が生み出した姿と映ることである。

 

昨今、「パワースポット」などと称されるキャッチフレーズに誘われるが如く、観光客として寺社仏閣を訪れる人が多い。

 

しかし、その美しい寺社仏閣(特に神社)はこのような氏子の皆さんのような連綿とした善意によって清められていることを決して忘れてはならない。

 

商業ベースや現世利益に影響された考えで神仏に対面することから、「感謝」のこころをもって神仏を己に重ねることへ、一人でも多くの日本人がchangeすることを心から願う。

 

すると、不思議と大量消費を美徳とは考えなくなる。

 

日本人として、足元にある「もの」や、先人の伝えてきた「智慧」の存在へ回帰するようになる。

 

人の目を気にする生活から、己の心の平安へのありがたさを噛み締める生活へと変化する。

 

例えば、大きな、人を威嚇するような、見栄を張るようなスタイルの車を求めなくなる(僧侶ですら、過剰な大きさや威圧的なデザインの車を寺院に止めていること見かけるが、離檀等の宗教離れの一因が垣間見れよう

 

そして運転もやさしくなる。

 

ハンドルを片手で持つ、かっこつけのような運転スタイルをしなくなる。

 

私は、運転するとき、ハンドルは両手で持つ。

 

言うまでもない当たり前のことのはずだが、対向車のドライバーはほんとうに片手運転が多い。

 

善悪の基準を言うのは気が引けるが、これだけははっきり言おう。

 

「やさしさ(慈悲)」がない。

 

もし、お年寄りやこどもが出てきたらどうするのか。

 

もし、想定外の危険回避をせねばならない時どうするのか。

 

きっと、そういう人はこういうだろう。

 

大丈夫、私は運転がうまいから・・・」

 

では、運転がうまいあなたでも回避できないほどの場面に出くわしたらどうするのか。

 

「その場合は、仕方ない・・・」

 

その場合、人の命を奪うということだ!

 

ハンドルを両手で握っても、完全な危険回避は難しいのに・・・

 

以前にも申したが、私は直接警察の試験による大型2種(バス)免許取得後、特に運転への配慮を重視するようになった(何度も言うが、警察官による「厳格な試験」を何度も経験したことは私にとって良き「財産」である)。

 

そこで、私は、車の中に天台宗の経典を携え運転前に読経することにしている。

 

時間がない時は、短いお経である「延命十句観音経」や「不動明王ご真言」などをお唱えすることにしている。

 

とりあえず、車を運転できる境遇への感謝を読経として顕す。

 

さすれば、運転前にドライバーとして心を落ち着かせ、集中するに向かう。

 

運転を終えた時は、無事に運転できたことへの「感謝」を読経をもって顕す。

 

快適で安全な大きな車に身を置くと、逆に「感謝」の気持ちを維持しにくくなると、私は確信している。

 

道路は「公」道である。

 

その「公」道を無事走らせていただける有難さを身にしみて「感謝」する機会を、過剰な見栄えや贅沢をまとった「車」は奪ってしまうのだ。

 

これは、何にでも当てはめられよう。

 

公職(公務員・議員)、会社、家、役職(教員・管理職)、学歴、難関資格、美貌・・

 

それが他人から「見栄え」よく、「贅沢」があふれるものである場合、「感謝」する機会は遠ざかる。

 

「欲」とは恐ろしいものであるゆえ、便利に慣れた私たちは、「感謝」することで、己の感性(仏性)を取り戻すしかないのだ。

 

特に、車は人の命を奪う身近な「凶器」ともなる。

 

そういう「欲」の具現化したものという意識をもって、運転させていただけることへの「感謝」が重要なのだ。

 

話が、いくぶん自動車運転のことになってしまったが、「感謝」の場は多ければ多いほどよい。

 

だが、私たちは雑念や欲望から完全に逃れることはできない・・・

 

だから、「感謝」といっても、形だけで終わっていることがほとんどなのだ。

 

ゆえに、個人的な願いで寺社仏閣へ詣でることよりも、本日の「紀元祭」のような個人の規模を超えた行事を通して、参詣するほうが自然と「感謝」できるのだ。

 

そして、そこに集う老若男女の方々も同じく個人的な欲望をむき出して参詣するといった雰囲気ではないため、自然と「感謝」する方向へ導かれていきやすいのだ。

 

ぜひとも、「紀元祭」に当たる「建国記念の日」の本日は、せめて神棚の扉をお開きして、家族そろって祝詞を奏上していただきたい。

 

それと、祝日は「国旗掲揚を心よりお願いしたく候。

 

「国旗掲揚」が祝日には自然の風景となることを私は願う。

 

この「日本国」があるからこそ、私たちは不平不満があっても生きられているではないか(何でも完璧なものはこの現世にない。日本国の伝統を否定する政治家や思想運動家の方々が唱える公教育などでの教育方針を受けて実際、こころが豊かになっている人が増えたのか?感謝できる人間が増えたのか?を問いたし)。

 

日本国を否定する人、国旗、国歌を否定する人のほうが、案外、公務員などの身分で守られていたり、この国の制度や税金の御蔭で暮らしているように映るのは私だけでは決してないだろう。


不平不満を言う前に、「感謝」、なのである。

 

そして、その「感謝」を顕す日こそが、本日の「紀元祭」のような祝日に他ならないと確信するが如何。

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受験合格の秘訣

2012/01/25 14:32

 

1月25日と言えば、菅原道真を祀る天神さまの初天神である。

 

近くの長良天神神社の初天神に、正式参拝し、祝詞奏上、玉串を捧げて感謝の意をあらわす。

 

 

幼少の頃には、京都の北野天満宮での縁日に、大鳥居前に住まうわが祖母に連れられてお参りしたものである。

 

そういった経緯からも、私は天満大自在天神を崇敬し、日本国の発展に寄与したいと、大学受験の頃にはご神前にて誓ったものである。

 

お陰をもって志望大学にも合格したが、私は、天満大自在天神として御まつりされた歴史を顧みるに、菅原道真公を「祟り神」もしくは「雷神」などと怖れていた、当時の権力闘争に身を置いていた輩のようにはなるまいと誓うとともに、精一杯の努力を成し遂げたことがご縁で合格したのだ、とつくづく思う(今はあの当時ほどではないが…反省)。

 

当然、「神頼み」ではなく、自助努力こそが、神仏に応援される唯一の方法であることは、ここで改めて言うまでもないであろう。

 

だが、やはり「学問の神様」と後世あがめられていることから、藁をもすがる思いで「志望校合格」や「各種試験合格」を祈念する方々も多かろう。

 

だが、その元となった志には、「日本国」をはじめ「近隣諸国」、さらには「地球規模」に蔓延する様々な不正を正し、日本国民の学問啓発を担い、良き国を築き上げたいがために合格し刻苦勉励に身を置かん、とする善男善女を天神様(天満大自在天神)は強く希求なされていると、こころの底から確信するばかりなり。

 

況や、かの遣唐使廃止を御進言なされ、「国風文化」を護らんとされた姿勢は、歴史の真偽はさておき、日本国の八百万の神々の中でも、特に、私には日本人の模範と映るのである。

 

私は、天満大自在天神(天神様)だからこそ、この昏迷の日本国を御救いなさる神と数えられると考える。

 

国家鎮護のために朝廷が奉幣なされた二十二社があり、そのうちの下八社には北野天満宮が見受けられることからも妥当であろう。

 

ゆえに、まずは国家鎮護を祈るべし。

 

そして、微力ながらも己もその一助となるべく、己を磨かんがための登竜門としての受験合格を祈るのが筋であろう。

 

この受験シーズンの最中、各地天神さまを詣で、学問成就を願う前に、菅原道真公のご生涯を学んだ後、それに対して恥ずかしくない願いであるかどうかを自身に問うてほしいと願うばかりなり。

 

あなたは、己を超えた存在のために学問を修めたいと思っていますか。

 

自分や周りだけの幸せだけを願う心を超えた「大義」のエネルギーは大きい・・・

 

ぜひ、己を超えた存在のために、学問を修めて欲しい。 

 

己や家族だけがまずは幸せになるように願う「情」から、祖先が連綿と護ってこられた「日本国」全体をよくしたいと願う「愛」へとシフトアップできれば、あなたは不思議と八百万の神々に強く御護りいただけること必定なり。

 

これこそ愛国心であり、さまざまなプロパガンダで偏向されてしまっている「国を愛する」ということは、世界中で当たり前であり、それができて初めて世界に想いを馳せる「国際人」の一員となれるのである。

 

あまりこれを言ったら勘違いなされる方がいらっしゃるのではと憚られるが、実際のところ、この心構えをしっかりと心に保つことができるならば、入試はじめ各種試験の「合格」が不思議と近づくこと必定なり(くれぐれも申し上げるが、「自助努力」を尽くすことが前提である) 

 

天台宗伝教大師曰く、己をを忘れて他を利する《忘己利他(もうこりた)》 ~伝教大師最澄『山家学生式』~

 

南無天満大自在天神、願わくは日本国を背負わんとする善男善女の臣民の、志望校、若しくは目指す試験への合格を見護り、導き給へ。

 

いつも当ブログをご高覧下さっている「善良」な日本国民の皆様におかれましても、天満大自在天神の御加護あること、これ疑いなきことなり。

 

(注)菅原道真公詠める歌にだに まことの道に かないなば 祈らずとても 神やまもらんとあるが、しかし、日本人ならば当然のこと、畏れ多くも御神前では作法や儀式を重んじ、「二礼二拍手一礼」や「お賽銭を投げ入れずそっと入れる」等の「型(形)」は大切にすべし。

 

日本の伝統、特に「型」を軽んじる現代社会は、人間関係、ルールやマナー、生活リズム、食生活などの崩壊に見られるように、いたることろで歪を生じていること明白。

 

「型」を重んずこと、鳥居をくぐる際から心がけるべし。

 

同じく、受験勉強も「型」を重んじ、「基礎」学力を確立することにまずは専心すべし。

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鎮守神

2012/01/14 14:28

 

出張先での新年はじめての仕事始め。

 

改めて、その地をお守りなされている「鎮守神」等を詣で、つつがなく仕事ができた今までの感謝の意と、御挨拶に参る。

 

畏れ多くも仰々しく表現するならば、仕事初奉告祭というところだろうか。

 

まずは、利用する駅付近の神社に御挨拶に参る。

 

 

「野崎観音」で有名な慈眼寺境内に祀らるる。

 

 

河内西国霊場巡礼満願者として、こちらは格別の縁ある観音様であり、1月18日までが「初まいり」とのことにて、一年の始めをこころより感謝。

 


続いて三十三所観音堂。

 

こちらは、西国礼所一番那智山から、三十三番谷汲山までの観音様が祀られており、三十三霊場を一度に拝むことができるようになっている。

 

 

続いて、別の駅周辺の鎮守神として、住吉神社に詣づ。

 

 

こちらの神社が建つ、角堂浜が現在の地名の由来とのことを知る。

 

 

後日、出張先の鎮守神である坐摩神社にも詣づ。

 

 

こちらは、私にとって切っても切れない石清水八幡宮のご分霊を祀る八幡神社。

 

駅から歩く途中、ずっと日が雲に隠れた状態が続く中、手を合わせて祈ったその「瞬間」、眩いばかりの日光が我に降り注ぐという摩訶不思議な「千載一遇」・・・

 

まさに戌年の守護神である八幡大菩薩の御加護を強烈に感じ、ただただ感謝と神の普遍的圧倒的な存在に震えるばかりなり。

 

いつも見護られているという安堵感は、何物にも代えがたい・・・

 

 

初詣には、各地一宮等の代表的神社や地域の氏神、産土神などへおでかけになった方も多いであろうが、普段、仕事や通学、通勤路等にて御守りになっている鎮守神等へもご参拝なされるようお勧めする次第。

 

自分の人生で大きな影響を与えられる学校や職場のある場所を御守あそばされる神々に手を合わせることは、自然と心を落ち着かせ、学校のクラスメートや職場の同僚等との人間関係の改善がもたらされよう。

 

それがさらなる感謝となり、気の循環がよくなり、開運に繋がるのである。

 

もちろん、そこの土地の由緒を知り情緒を感じ取る機会にもなるため、新たな刺激と発見をもたらしうる。

 

せっかく、人生の重要な時期や大半をその地で過ごすのならば、まだ一度もお訪ねになったことのない方におかれては、ぜひともその地の鎮守神等を訪ね、今までの感謝を伝えてほしいと願うものなり。

 

学校や職場で悩む方々ならば、何かしら風景の感じ方やものの見方が変わっていることだろう。

 

それこそが目に見えないが、「開運」なのである。

 

ものの感じ方を変える、複眼的にものを見ることが、「開運」なのである。

 

さあ、自分の住まうところの氏神、産土神や信仰する寺社仏閣だけではなく、日々通う学校や勤務先の「鎮守神」を訪ね、感謝を伝えよう。

 

そこからあなたが輝き、周りが輝き、日本国全体も輝き、地球までをも輝かせる。

 

一隅を照らす、これすなわち国宝なり(天台宗 宗祖 伝教大師)

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成人の日

2012/01/09 19:02

 

1月の第2月曜である本日、成人の日ということで、日本国の善良なる若者が、これから素晴らしき人生をこの国の発展とともに送れるよう、この願いにふさわしい由緒ある神社に詣づ。

 

岐阜の山間部に入った十五社神社にて本日を祝う。

 

 

こちらを畏れ多くも選ばせていただいた訳であるが、それは前日の夜、高級神霊からのインスピレーションによることと、高天原の天之常立尊、国常立尊はじめ、天照皇大神など、日本国を築き上げてこられた大神が十五社もお祀りされていることによる。

 

 

いにしえは十五社大神宮として皇室の安泰も祈願なされていた格式高い神社である。

 

 

本日をめでたく迎える日本国を担う成人の皆さんが立派な志を持ち続けられるよう、心から祝い、国家鎮護、国土安穏を祈るべく、厳粛な雰囲気漂う御神前にて、祝詞を奏上す。

 

不思議と、己と御神前との間を、突然、風が吹き抜け、日本国を御守護されているあまたの高級神霊の存在を身近に感得するばかりなり。

 

続いて、同じ境内の大日堂を参詣す。

 

堂内には、私が尊ぶ神仏習合のお祀りとして、大日如来はじめ、各種如来、菩薩、天部等が静寂の中におはす。

 

 

ささやかながら、法華経、光明真言、それぞれのご真言にて、報恩感謝し、神仏習合が残るこの地はじめ、日本国の懐深さを尊ぶばかりなり。

 

日本国を御守護し給う諸仏の上には、かの日露戦争「旅順攻囲戦」を彷彿させられるような風景が描かれている絵画が奉納されていた。 

 

 

大日堂の隣には、忠魂神社が祀られており、その関係なのかは存ぜぬ。

 

だが、ただ私は、あまたの英霊の方々に対して、日本国が今あるお陰に感謝し、己を振るい立たせるばかりであった。

 

成人式を祝う善良な青年諸君は、このような絵を目にするとき、どのように感じるのだろうか。

 

少なくとも、私は、この絵を拝見した瞬間、今ある平和がどれだけ「尊い(世界から、もしくは人類史上から見ればありえない)」かを改めて感じ、また、今の日本国民はその「ありがたさ」を如何噛みしめているのかと懐疑するしかなかった。

 

日本国を御守護なされている八百万の神とともに、連綿と続く日本国を護ってこられた英霊に対し、成人の日の本日ここに改めて感謝す。

 

オン アボキヤ ビロシャナ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラバリタヤウン

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初薬師

2012/01/09 17:37

 

平成24年1月8日、初薬師として薬師如来が祀られている岐阜市延算寺に詣づ。

 

こちらの本尊薬師如来は、天台宗伝教大師一刀三礼の御作にて、比叡山延暦寺根本中堂の薬師如来と同木とされている由緒ある仏様。

 

 

薬師如来様は現世利益を叶える如来様として、比叡山でも根本中堂で、国家安穏祈願はじめ、日本国民の安寧がたえず祈り続けられている。

 

しかし、如来様である以上、その願いの深奥には、願望成就等の現世利益によって、感謝の心を生じさせ、この世を仏の世界にしたいというありがたい想いがあることを忘れてはならない。

 

その深い想いに感謝することを忘れ、次々と願望を湧き立たせてしまうと、仏とのせっかくの縁が生かされないことになる。

 

物質的な満足を超えたところに導きたい願いがあるからこそ、現世利益が叶うことを、今もって私は己に再確認するのであった。

 

現世利益に溺れてはならない。

 

だが、現世利益を現わされてこそ、我々のような凡夫は仏縁を結ぶことができるのか・・・

 

どんな仕事も、顧客満足が要求される時代・・・

 

だが、その現世利益といえる顧客満足が仏様のような良き因縁となるか、悪しき因縁となるか・・・

 

私は良き因縁を社会に還元することが、これからの仕事のあり方と考えているが如何。

 

南無薬師瑠璃光如来

 

我をして、良き因縁を我に縁ある方々にこれからも与えさせ給へ、導き給へ

 

おんころころせんだりまとおぎそわか

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阿弥陀如来

2012/01/06 18:44

 

昨年は、未曾有の大震災はじめおぞましい事故や事件が多発した「試練」ともいえる一年であった。

 

その影響から来る多くの日本国民の不安や失望、さらには憎しみが、未だこの国を覆っていると感じるのは、決して私だけではあるまい。

 

さらに、連綿と続く日本国を守り抜いてきた大和民族の祖先たちをないがしろにする風潮や、希薄化した愛国心によって、国土の「気」が弱まっている

 

私が好きな、かの御成敗式目の一つに、は人の敬によりてを増し 人はの徳によりて運を添ふとあるように、自分自身や家族の幸せを祈る以前に、日本の八百万の神や大和民族の先祖を日々敬うことが、善良な日本人個々人の安寧につながってくることを、年頭、改めて堅固に思い定むるべし。

 

「絆」の再発見など、耳触りのよいキャッチフレーズによって、私も思考停止しながら安堵したいものだが、国家や神はじめ、よき伝統までも軽視する個人主義の風潮がますます蔓延する中、そうもいっていられない。

 

以前より徒然と書き記したブログには、多くの方には「悲観的」としか映らない、日本人の魂の弱体化・劣化を嘆いている私がそこにある。

 

ただ嘆くだけではどうにもならぬ、と私にできることは何か、ということで昨年始めた各地霊場巡礼も多くを無事満願できた次第。

 

当然、国家鎮護と国土安穏、天下泰平を念頭に、時には苦しい、悲しい巡礼もあった。

 

摩訶不思議な出来事や、さまざまな出会いも、人々の温かさにも出逢った。

 

もちろん、「絆」というキャッチフレーズにふさわしいこころ優しい日本人はたしかにいらっしゃる。

 

だが、それとは正反対の魔性に魅せられた日本人も多いことは自明の理。

 

とりあえず、各地霊場巡礼で、日本人として贅沢な衣食住に囲まれてきた自身の懺悔とともに、この国の安寧と永い歴史を振り返った上での現在までの鎮魂を祈り続けてきた。

 

自分自身の個人的な祈りなんぞをする己はそこになく、霊場の大自然や寺社仏閣に住まう高級な神霊の方々と同行する安堵を味わう境遇に、ただ感謝するばかりの至福の巡礼であった。

 

ここで、法華経を愛する修行者として、大和民族の祖先の方々はじめ、未曾有の大震災の犠牲になられた方々の鎮魂には、特に法華経の観音経を読経することを意識してきたが、先日クリスマス・イヴの12月24日洛陽六阿弥陀巡拝の功徳日が、ちょうど「法華経を三万部書写するにむかう」日にあたるゆえ、洛陽六阿弥陀巡拝に出かけた。

 

洛陽六阿弥陀巡拝は、木食上人発願の京都市内の真如堂から誓願寺までの六つの霊場巡りである。

 

阿弥陀如来といえば、戌年である私の守護本尊である。

 

また、私は天台宗ゆえ、本尊として阿弥陀如来を天台大師、伝教大師の中央に御祀りし、常に法華経によって回向しているところである。

 

浄土真宗や日蓮宗の系列の方々には違和感があろうが、当然、法華経には阿弥陀如来は登場なされているし、阿弥陀経には、法華経など他の経典を排除せよとはまったく書かれていない。

 

私は、経典を尊重する仏教者である。

 

それゆえ、浄土系や法華系の高僧の解釈した教えよりも前に、まずは経典を尊重するため、このスタイルがやはりもっとも心を鎮め、仏教徒だと自負することができる勤行なのである。

 

それが許されるのは、既存の宗教の中では天台系(天台宗・天台寺門宗・天台真盛宗)となるため、私は天台宗の阿弥陀如来を本尊として、法華経を中心に回向するのである。

 

混迷の日本国を救うひとつに、私は、個人や家族の幸福追求を超えた祈りが必要と見る。

 

その際、歴史を大きくさかのぼって今の自分の置かれた状況を見てほしい。

 

南無阿弥陀仏「のみ」、あるいは南無妙法蓮華経「のみ」、といった教えが生まれた「歴史的背景」を認め、それを「超えて」この国の歴史を鳥瞰的に眺めることで、仏教をしなやかに捉え、「神仏習合」の日本国の姿を認めることを心よりお勧めするばかりなり。

 

そうすれば、日本国「すべての神仏」が感謝の対象となり、よき「気」が充満するはずだ。

 

12月24日は、洛陽六阿弥陀巡拝における法華経に縁ある日。

 

クリスマス・イヴを祝う前に、日本国に根差したお祝いを、皆さんの地域にお求めくだされ。

 

これ以外に、12月24日は、「納め地蔵」の縁日である。

 

韓流ブームや欧米衣食住ライフスタイルなどに魂を奪われている一部の方々に見受けられるように、行き過ぎた「外」を見ることへの関心から、日本国という「内」のよさを改めて見つめ直す時代になれば、と私は願っている。

 

自虐史観からの脱却。

 

それができて初めて、「国際人」への第一歩が始まると、私は確信している。

 

オンアミリタテイセイカラウン

 

南無阿弥陀仏

 

オンカカカビサンマエイソワカ

 

南無地蔵大菩薩

 

ちなみに、元日早朝は天台宗系の本山にて国家安穏を祈る修正会に参列し、本尊阿弥陀如来を前に念仏と般若心経で一年が始まった次第である。

 

日本国と善良な日本国民の安寧をここに改めて祈る

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三島由紀夫

2011/11/15 10:58

 

矛盾した社会に翻弄される我々日本人すべては、今こそ、下記の一文を改めて噛みしめるべきか・・・。

 

三島由紀夫檄文(抜粋)

 

われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。

 

 

 

 

賢人は、われわれ凡夫が気付いていない時から、兆候を見抜くことが改めて実感できようか・・・

 

愚者は成事に闇く、賢者は未萌に見る

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功過格の教え

2011/11/14 12:02

 

明の時代の中国に「功過格」という教えがあった。

 

これは簡単に言うと、運命を改善するために、悪いこと、善いことを点数化し、その合計得点で運命がどう展開するか、を反省し、悪い点数を改め、善い点数を増やすように努めるための一覧表である。

 

この教えは「仏教」の因果応報と合わせて、「道教」の教えが根底にあると聞く。

 

実は、私は、ある観音霊場巡礼の際に「仏縁」で授かった書物にこれを知り、学んだ次第。

 

その寺の僧侶で、善意でこの教えを冊子にして広めていらっしゃる方がおられて、私はこれを活用して「懺悔」し、これに出会うことでこれからの運命を改善できるという希望に「感謝」しているところである。

 

その書物には、その実践とともに、「準堤観音」のご真言を合わせて唱えよ、とお示しになっている。

 

ぜひ、私の拙いブログをご訪問なされたご縁ある皆様に、簡単ではあるが、抜粋してご紹介したいと思った次第。

 

まずは以下の一節をご紹介、それには・・・。

 

「人の心を堕落させる本などを作る」ことがマイナス得点となると示されている。

 

現代では、各種レジャー、テレビ番組、音楽、スポーツ、インターネット、広告、ゲームなどもこの「本など」の範疇に入るであろう。

 

とりあえず、重要なのは、「人の心を堕落させる」かどうかの一点に尽きる。

 

ぜひ、皆さん個々人や、皆さんがお勤めの組織や団体が行う日々の行為の中に、このような要素があれば、勇気をもって排除すべきであろう。

 

先日のTPPのグログにも申し上げたこと。

 

因果応報

 

だからこそ、だからこそ、「人の心を堕落させる」産業から、「人の心を向上させる」産業へのシフトが、今求められているのだ。

 

レジャー、スポーツ、ファッション、グルメ、音楽、ゲームなどは、現代の我々の社会では、まったく「疑いもなしに絶賛」されているが、そのすべては「人の心を堕落」させてはいないと果たして言いきれるであろうか。

 

もし、「人の心を堕落」させる悪意をもって表現されているならば、これ以上「悪因悪果」を生みださないよう、「人の心を堕落」させる要素を排除し、「人の心を向上」させるためにはどうしたらよいか、と改善をはからなければならない。

 

そして、それに影響される人々を少しでも少なくするために、一人でも多くの人々が自身を律し、「人の心を向上」させるためにはどうすればよいかと真摯に向き合っていかなければならないのではないか、如何。

 

別の『太微仙君純呂祖師功過格』では、

 

「一冊の邪書を出版す」

   

「離縁状を一通代書す」

 

なども大きなマイナス得点になると示されているところである。

 

私は「行政書士」という職業も経験してきたが、業務分野に協議離婚などに関する書類作成や相談も含まれる。

 

私は、偶然運が良かったことに、このような離婚関係の事案に遭遇することはなかったが、もし受諾していれば、私の運命はこの悪因悪果によって、苦しんでいたかもしれない・・・ 
 

やはり、離婚「する」ように勧めるのではなくて、離婚「しない」ようにするためには、どのような心構えをお互いすべきか、どのような相手を選ぶべきか・・・究極は、離婚に遭遇しない運命を身につけるには普段どのような生活をすべきか、などの争いの「予防を勧めることが重要なのだ。

 

私の肩書「心の経営カウンセラー」としてはここは強調しておきたいところ・・・。

 

それでも、「残念ながら」離婚となった場合は、その経験を「懺悔」し、婚姻で学んだ数々のことに「感謝」し、社会に還元していくことが大切であろう。

 

「権利」を主張される方が多い時代だが、「権利」と対の概念である義務」をないがしろにされる方も多いのが悲しき世相・・・

 

『行政書士倫理綱領』には

 

行政書士は、国民と行政とのきずなとして、国民の生活向上と社会の繁栄進歩に貢献することを使命とする。

 

一、行政書士は、使命に徹し、名誉を守り、国民の信頼に応える。

 

二、行政書士は、国民の権利を擁護するとともに義務の履行に寄与する。

 

三、行政書士は、法令会則を守り、業務に精通し、公正誠実に職務を行う。

 

四、行政書士は、人格を磨き、良識教養の陶冶を心がける。

 

五、行政書士は、相互の融和をはかり、信義に反してはならない。

 

と示されている。

 

私は、この太文字の部分を個人的に誇りにしていた。

 

これからも、私は、人の争いを防ぐために、学習し、実践し続けなければならないと心に決めている。

 

ただし、「平和」や「人権」などのスローガンばかりを声高に掲げる方法とは一線を画すること宣言す。

 

逆に、ただ「平和」などと提唱する団体ではなく、今回の大震災に対して実質的な「救済」を実現した「自衛隊」の皆さんに対しては、私は心より敬意を表するばかりである。

 

仏教でも、「天部」というボディガードの神々がいらっしゃるように、「平和」を具現化するためには「威」も否定できないものなのだ。

 

このことを忘れて、我々日本人は戦後、「平和」はタダ同然というべき思考の下で、「夢心地」に浸っていたに過ぎぬ・・・

 

私は、きれいごとではなく、人間として生々しい現実を肯定もせず否定もせず生き抜くためにはどうしたらよいかを、「仏教」や「易学」などの東洋の思想をもって実践し、一人でも多くの方々や各種組織の皆さんにお勧めしたいのである。

 

 

TPPで想像もできない生活を招来しないためには、今からでも遅くはない。

 

我々日本人一人ひとりが、せめて「功過格」にある「人の心を堕落させる」行為をしていないか、日々反省し、人の心を向上させる」行為にチェンジしていくことが、これからの日本国民の安寧を実現すると確信す。

 

日本の各種産業は、今こそ、この「人の心を向上」させるために経営を見直すことが肝要と確信するが、如何。

 

日本国の義務教育はじめ各種教育関係者は、今こそ、この「人の心を向上」させるための教育を推進することが肝要と確信するが、如何。

 

南無準堤観世音菩薩

 

世の人々が「人の心を堕落させる」行為から一刻でも早くれられるよう導き給へ

 

オン シャレイソレイジュンデイ ソワカ

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TPP

2011/11/03 18:29

 

我が家の上にまで枝を伸ばさんとするシイの大木がある。

 

昼夜にかかわらず、シイの実が玄関の前にパチパチと打ちつけられて落ちてくる。

 

シイの実は、「どんぐり」の中でも、おいしくて栄養バランスに秀でた自然界の貴重な食糧であるが、この実を集めている者は、近隣では誰もいない・・・。

 

戦時中など、食糧不足の時代には、食した方も多かったとは聞いているが、現在は豊富な食材に囲まれる生活で、ほとんど見向きもされなくなっている現状・・・。

 

このシイの実にはいろいろな調理法があるが、私は自称グルメ派ではないため、フライパンの上で炒って食することで満足す。

 

 

皮は大工用具を駆使して処理したのち食している。

 

特に炒りたては香ばしさも手伝ってことのほか美味いのである。

 

自然の中で暮らす方には、何を今さらとお思いであろうが、だからこそ、宝物は身近にあることを実感すべきである。

 

「灯台もと暗し」

 

地方にもどんどん進出してきている大型流通施設に車でまとめて食材を求めに行く生活に慣れて、自然界から頂ける貴重な食材を忘れてはいまいか、今一度、心に問うて欲しい。

 

特に、これからの子孫や地域の子どもたちに、健康の観点からも、世界的な人口増加や低い日本の食糧自給率などからも、サバイバルに役立つ情報を共有していただきたいと心から願うものなり。

 

現在、TPPの賛否について、巷では議論の最中であるが、どちらに転んでも、現状を改革しない限り、食糧事情の展望は決して明るくないように考える。

 

過剰な広告や評判などに惑わされず、迫りくる厳しい時代に備えて、今のうちにシンプルな食生活を身につけていただきたいと願う。

 

はっきり言って、以前にも提案したが、贅沢三昧の過剰なグルメ志向の時代からは卒業すべきではないか、と私は考えている。

 

今も、食べるものすらない貧困に喘ぐ人々が世界中に無数に存在しているのだ。

 

そして、グルメという一時の「快楽(欲望)」の影で、大量生産方式によって牛、豚、鳥が太らされ、殺されて、その光景は悲しく胸が苦しいばかりである・・・

 

昔は、「馬頭観音」の塚を立てて供養なされたように、畜産業の方々も感謝の念をもって動物の生死に向かい合って来られたが、現代の大量生産方式の多国籍企業はじめとするファーストフードにおいては、利潤と効率によって、一頭、一羽それぞれに対して「命」を重んじるすべもなくなっているのが現状であろう・・・

 

そして、それを生んでいるのは、誰でもなく、私たち消費者たる人間であることを肝に銘じ、「粗食」にシフトすべきなのだ。

 

農林水産業や観光業、飲食サービス業の方々も、不景気だから顧客を集めるがために、過剰なグルメ志向を提案する方向を見直す時代ではないだろうか。

 

私たちも、一時の「快楽」を追求する価値観を脱し、将来の食糧危機に対してや、過剰な化学調味料から離れた自然志向、健康志向を考えた食事とは何か、を日本全体で見直さなければならない、と考えるが如何。

 

そこに、農林水産業の発展と健全な食事環境との両立が可能ではないかと、一縷の望みを抱いているところである。

 

TPPに参加しようが、不参加の道を進もうが、そんなことだけではこれから起こりうる食糧危機を乗り越えることはできない、と私は考える。

 

だからこそ、現状の快楽に溺れず、世界の動向をしっかりと見定めながら、足元固めをしっかりとすべきなのだ

 

戦後あまりにもぬるま湯に浸ってきたわれわれ日本人が、目をそむけてはいけない核心なり。

 

混迷を深める世界の中で、いつまでも日本だけが、比較的平和で社会保障も充実した環境を、簡単に維持することはできないのだ。

 

というより、すでに崩壊している上で、生活しているに過ぎない・・・。

 

今、見直すことはあまりにも多すぎる日本。

 

せめて、個々人が食生活だけでも顧みて、「こころ」と「からだ」をシャープに保つことで、長期的な視点で決断できる感性を取り戻すことを願う。

 

さもなくば、いくら識者が素晴らしき提唱をなしたところで、それに賛同できる感受性がなくば、残念ながら日々の娯楽やテレビ三昧、芸能人情報、ギャンブルなどの過剰な関心から危機的な日本への関心にシフトさせることは難しいであろう。

 

まずは、自然への回帰。

 

自然への畏怖と感謝。

 

そこから無限の智恵が湧き出てくる。

 

そこから日本人の遺伝子が活性化してくる。

 

日々の生活から、世界情勢の中に至るまで、我々は多くの罠から逃れることはできない・・・。

 

そんな中、多くの日本の先人達が培ってきた智恵を使って回避することができるはず、である。

 

私は、非科学的と言われようが、これは非科学的と自分で分かっていても確信していることである。

 

日本人として、精神を研ぎ澄ます方ならば、自然と分かるはずである。

 

TPP参加が実現すれば、今まで当たり前だと疑うこともなかった「恩恵」が崩れ、「あの頃はよかった」などと嘆き悲しむ人も多くなるかも知れぬ・・・。

 

ただ、我々はこの既存の多数決によって導かれる民主主義の制度から逃れることはできない。

 

これも我々日本人の「因果応報」也。

 

だからこそ、これ以上悪い「因果」を作ってはならない。

 

少しでも、良い「因果」をつくるために、技術立国ゆえの過信、四季折々の海の幸山の幸に恵まれている贅沢などに甘んじてきた我々日本人は、謙虚で質素なライフスタイルに立ち戻ることが必要だと、私は因果応報という仏教の教えを噛み締める仏教者として、こころの底より思うのである。

 

あいつが悪い、政治が悪い、社会が悪い、諸外国が悪い、などと、後で文句を言うのは簡単である。

 

それよりも、自分自身が恵まれて強運の下にあるときこそ、来るべき危機や不運の場面を思いめぐらし、『甘い誘惑』を遠ざけることで、「隙」をつくらない努力が大切なのであることは自明の理なり。

 

ゆえに、今の混迷の社会は、私も含めた我々の「因果応報」に基づくのである。

 

以前申し上げた「懺悔」と「感謝」が、ピンチの今こそ、すべての日本人にとって求められるのである。

 

シイの実をおいしいと思える己の境遇に、あらためて感謝するばかりなり。

 

そして、そんな食材を育んでくださるこの国の八百万の神々に感謝するばかりなり。

 

わが住まう地の産土(うぶすな)の大神につつしんでありがとうございます

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